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1145年、モースルの太守ザンギーの反攻によって十字軍国家のエデッサ伯領が奪われたとの知らせを受けて、ローマ教皇エウゲニウス3世は聖地救援の十字軍を呼びかけた。この知らせにはプレスター・ジョンについての情報も含まれており、その救援も期待されたようである。 教皇の頼みで、シトー修道会の高名な神学者であり名説教家として定評のあったクレルヴォーのベルナルドゥスが勧誘説教を行い、フランス王ルイ7世と王妃アリエノール、ドイツ王コンラート3世、シュヴァーベン公フリードリヒ(後の皇帝フリードリヒ1世)の他、第1回十字軍には及ばないものの多数の貴族、司教の参加者を得た。さらに庶民も熱狂し、ベルナルドゥスは教皇に宛てた手紙で、「一般庶民男子の8割が参加し、女しか残っていない。後家さんだらけだ。」と報告している。ベルナルドゥスは騎士修道会の心身両面での戦いを評価しており、聖地への巡礼と戦いにより贖罪を行い、それを経た後に各人が世の中に福音を伝えることを構想していた。彼の果たした影響のため、この十字軍は「聖ベルナールの十字軍」とも呼ばれる。 ただ、既にイベリア半島ではレコンキスタが佳境に入っており、イベリア半島方面やマルセイユ、ジェノヴァ、ピサの住人は、そちらに参加することが勧められ、また、ドイツ諸侯から希望された北方スラヴ人の征服も十字軍(北方十字軍)として認められた。 以上からも分かるように、この時には他の十字軍とは違い、エルサレム奪還という最終目的が無い(まだエルサレムは維持しており、直接的に攻撃を受けているわけでもない)ため、その目的が、エデッサ伯領を奪回するのか、ザンギー朝を攻撃するのか、エルサレム周辺の他のイスラム教国を征服するのか、イスラム教徒を片っ端から攻撃するのかはっきりしなかった。 また、キリスト教側の体勢は、ベルナルドゥスの調停にもかかわらず、ドイツ王コンラート3世とシチリア王ルッジェーロ2世が対立しており、結局ルッジェーロ2世は参加しなかった。東ローマ帝国のマヌエル1世もイスラム教徒とのパワーバランスを保っており、新たな十字軍を歓迎しなかった。さらにフランス王とドイツ王も行動を共にせず、それぞれバラバラに進軍した。 イングランド、ノルマンディーはスティーブン王の無政府時代のため、まとまった出兵は行えなかったが、各々の騎士達が、スコットランド、フランドル勢と共に船で出立した。途中、リスボンを攻撃しているポルトガル王アフォンソ1世の軍に合流して、1147年10月にリスボンを攻略した後、東に向かいフランス王と合流した。 ドイツ王は陸路を通って、ハンガリーからコンスタンティノープルにたどり着いたが、東ローマ帝国側の協力を受けられず、単独で小アジアを横断しているときにルーム・セルジューク朝軍に襲われ敗北を喫した。その後、わずかな生き残りがエルサレムにたどり着いた。 一方、フランス王はドイツ王のたどったコースを後から追いかける形になり、同じように小アジアでルーム・セルジューク朝軍に敗れた。なんとかアンティオキア公国にたどり着き、王妃エレアノールの叔父アンティオキア公レイモンからエデッサ伯領奪回を持ちかけられるが、断りエルサレムに向かった。 ようやく、エルサレムで全軍集結したが、戦意は低く、既にエルサレムに来たことで巡礼の目的は果たしたと考えて、帰りたがるものが多かった。また、現地の十字軍国家(旧エデッサ伯領、アンティオキア公国、トリポリ伯領、エルサレム王国)からの参加も無かった。 しかし、エルサレム国王ボードゥアン3世の元でアッコンにおいて軍議が行われ、政情不安で比較的弱いと考えられたダマスクスの地方政権(ブーリー朝)を攻めることになった。エルサレム王国の多くの臣下たちは、これを馬鹿げた考えだと反対した。ダマスクスはザンギー朝と古くから対立しており、また1140年にダマスクス領主ウナルがエルサレム王国軍の救援でザンギーの軍を追い払って以来、ダマスクスとエルサレム王国は同盟関係にあったためである。しかし、エルサレムやアンティオキアとともに聖書にも登場する聖都ダマスクスを手に入れ、この遠征を正当化する成果としたい十字軍側に結局押し切られた。 1148年7月23日、ダマスクス攻撃が始まったが、ダマスクスの領主ウナルは城の周囲の井戸や泉を埋め、対立していたザンギー朝の面々(後を継いだザンギーの息子、ヌールッディーンやその兄で彼とは対立していたサイフッディーン等)ほかさまざまなムスリム国家に救援を求めた。さらに、西洋からの大軍の到来で動揺していたエルサレム王国はじめ土着十字軍国家に、「ダマスクス陥落の次は、十字軍国家を直轄化して取り上げるはずだ」と文書を送り離間策を行った。そのため、元々数が少なかった十字軍はヌールッディーンらの外国為替 軍やダマスクスの伏兵に悩まされた上、給水にも困り、さらなるムスリムの援軍の脅威を吹き込む十字軍国家の説得を受け、わずか4日後、何の成果も無くエルサレムへ撤退した。 エルサレムに戻った後、十字軍は解散し、それぞれ帰路についた。 ローマ教皇の主導で行われた十字軍の中で、最も成果の無かった十字軍と言って良い(第4回十字軍ですらカトリック勢力の拡大という成果はあった)。 十字軍は何の成果も挙げずに帰ったばかりか、対立していたダマスクスとヌールッディーンを協力させ、後にヌールッディーンにダマスクスを領有させシリアを統一させることになり、イスラム勢力の結集を助長した。 土着化した十字軍国家は、ムスリムながら盟邦だったダマスクスを失い、かねてから西洋人には妥協しなかったヌールッディーンのシリア統一によって圧迫される羽目に陥った。 イベリア半島では、リスボンを奪取し、FX に貢献した。 スラヴ人に対する十字軍はこの後も続くことになる。 西欧はこの失敗に脱力し、エウゲニウス3世とベルナルドゥスの権威は失墜した。彼らが新しい十字軍を呼びかけても、もはや応じる者はいなかった。 1198年、主要な国王が参加しながら、あまり成果のでなかった第3回十字軍から10年たち、ローマ教皇インノケンティウス3世は、新たなる十字軍を呼びかけた。各国王はこれに参加しなかったが、シャンパニューで開かれた馬上槍試合(トーナメント)における勧誘で、シャンパーニュ伯ティボー、ブロア伯ルイを中心とした有力なフランス貴族が参加を決め、その後、フランドル伯ボードゥアン等が加わり70人以上の諸侯、騎士の参加を得た。シャンパーニュ伯が指導者になり、具体的な遠征計画を立てるための代表者として6人の騎士が選ばれた(その一人が、詳細な記録を後世に残したジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンである)。彼らが決めた方針は、イスラム教徒の本拠地であるエジプト(アイユーブ朝)のカイロを海路から攻撃するというもので、その輸送をジェノヴァやピサにも呼びかけたが、結局、ヴェネツィアに依頼することに決まった。ヴェネツィアは単に輸送を担当するだけでなく、元首エンリコ・ダンドロ自ら参加することになった。1200年にティボーが病死したため、新たにモンフェラート侯ボニファチオを指導者に選出した。 一方、シリアとパレスチナを支配していたアイユーブ朝は、エルサレムへの武装巡礼団が時々ベイルートなどの沿岸都市を襲うため、イタリア諸都市に対し西洋人の武装勢力を運ばせないようにする協定を行おうとしていた。1202年、アイユーブ朝の王でサラーフッディーンの弟、アル・アーディルは、互いに貿易相手として重要な関係にあったヴェネツィア元首エンリコ・ダンドロと協議し、以下の協定を交わしている。 エジプトはアレクサンドリアやダミエッタなど貿易港へのヴェネツィア船舶の自由な入港と援助を保障する 見返りに、ヴェネツィアはエジプトに対するいかなる遠征も援助しない ヴェネツィアは、十字軍との契約も、アイユーブ朝との協定も、同時に守るべく行動していた。 1201年に十字軍参加者はヴェネツィアに集結し始めたが、当初予定した3万人の約1/3の人数しか集まらなかった。このため、参加者の有り金を全部集めてもヴェネツィアに支払う船賃が大幅に不足し、出航することができなくなった。そこでヴェネツィア側との協議の結果、かってヴェネツィア領で現在はハンガリー王保護下のザラ市を攻略することで、船賃の補填とすることにした。同じキリスト教徒(しかもカトリック)のザラを攻略することには、十字軍内にも大きな抵抗感があったが、結局ザラを攻撃し数日でこれを降伏させた。知らせを聞いたインノケンティウス3世は激怒し、十字軍を破門にしたが、十字軍からの弁明を受けて破門を解いた。 ところが、ここに東ローマ帝国の亡命FX アレクシオスが訪ねてきて、帝位獲得の助力を願い出た。アレクシオスの父は皇帝イサキオス2世だったが、弟(アレクシオス3世)により簒奪されており、正当な帝位を回復したいとのことで、見返りとして、20万マルクの支払い、東ローマ帝国の十字軍への参加、東西教会の統合を提示した。モンフェラート侯とヴェネツィアはこれに賛成したが(予め知っていたと思われる)、他の十字軍士は躊躇し、一部の者は別行動をとったが、結局、大部分の者はこれに同意した。 ドラクロワ作「コンスタンティノポリスの陥落」1203年6月にコンスタンティノープルに到着し、アレクシオスを帝位に就けるよう要求したが拒絶され、7月に攻撃を開始した。コンスタンティノープルはこれまで、数々の攻撃を防いできた難攻不落の城塞都市であったが、十字軍はヴェネツィアの優勢な海軍力を生かして海側から攻撃を仕掛けると同時に陸上からフランス騎士隊が攻撃をかけた。攻防の途中でアレクシオス3世は逃亡し、残された者はイサキオス2世を復位させて、城門を開いた。 しかし、父イサキオス2世とともに共同皇帝として即位したアレクシオス4世は十字軍との約束を果たせなかった。東ローマ帝国の国庫にはそれだけの金がなく、東西教会の合同にも正教会側の激しい抵抗があり、即位したばかりのアレクシオスには、新税を課したり、強制したりする力がなかった。十字軍は約束を果たすよう要求し、また、東ローマ軍や市民との間にいざこざが起こり、FX に両者の仲は険悪になっていった。1204年2月に先帝の婿であるムルヅフォロスがイサキオス2世とアレクシオス4世を共に殺して、アレクシオス5世を称したことにより、両者は決裂し、十字軍は再びコンスタンティノープルを攻撃することになった。 1204年4月に攻撃を開始したが、今度は東ローマ側も慣れてきており、十字軍側の苦戦が続いた。しかしコンスタンティノープル城内にはヴェネツィアの居留民が大勢住んでおり、彼らが東ローマへの抵抗に回ったため東ローマ側も防衛は苦しいものだった。12月になり遂に城壁への侵入に成功し、これを見たアレクシオス5世は夜更けに逃亡し、代わったラスカリスも抵抗を断念し逃亡した。東ローマ側は抵抗をやめたが、十字軍側は当時の慣習に従って、3日間の略奪を行った。ハギア・ソフィア大聖堂に立てこもった市民や聖職者たちは殺戮され総主教の座は犯された。 コンスタンティノープル攻撃を東ローマから見た記録としてはコンスタンティノープルを命からがら脱出した政治家ニケタス・コニアテスの著書が詳しい。